今どうなってるの?!東大阪
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ふるさと東大阪2012年8月14日掲載
2012年8月24日補稿
2012年8月31日補稿









 
 
67年目の終戦記念日がやってきました。この夏も、行政主催の「平和のつどい」や民間の「平和のための戦争展」など貴重な取り組みがなされています。しかし、わたしたちの身近にも戦争の原体験をもつ方々がおられることを忘れていけないようです。今年の夏は、その方々の話に耳を傾けてはいかがですか。聞く側の想像力を働かせることで、きっと共感の世界が広がることでしょう。


盾津(たてつ)飛行場の語り部



盾津飛行場の航空写真 & 格納庫内の飛行機     提供:太田理さん


 盾津飛行場跡 提供:太田理さん  クリック:拡大
 東大阪にその昔、飛行場がありました。大阪陸軍飛行場といいます。地元のひとや当時の新聞は、盾津飛行場と呼んでいました。
 この飛行場のことをコツコツと調べ上げ、記録を後世に残そうとされている
太田理(おさむ)(四條畷市在住)に話を聞きました。
 
 太田さんは元中学校教諭。盾津中学校で社会科クラブの顧問を担当し、中学校の敷地にあった飛行場を社会科クラブの研究対象にしていました。

 
 そんな折、
わかくす文芸研究会の座談会で、転機となる出会いがありました。その人は、盾津飛行場で操縦教官をされていた吉田竹治さん(新庄)です。ここで訓練を受けた青年・学生たちの多くが戦地に赴き、特攻隊で亡くなる人もいました。吉田さんは、その記憶を含め、盾津飛行場がこの地に存在したことを忘れてほしくないと願っていました。太田さんは吉田さんのその記憶と意志を受け継ぐ決心をしました。いまでは、その思いが「かたりべ たてつの飛行場」(編集・発行わかくす文芸研究会)という本となって実を結び、歴史の証人となっています。

 講演や展示の依頼に応じる太田さん せんそう展にて



B29が墜ちた記憶



米軍のB29機  ウィキペディアより

 国民学校4年のころ、B29が墜落した当時の体験を語るのは高井田在住の山岸伊作さん(78歳)夜寝ていたところ、突然の大音響と振動に眠りを破られました。大人たちは原因を確かめにいったでしょうが、少年の山岸さんはそのまま眠りにつきました。翌朝、一帯は「B29が墜ちた」と、大騒ぎになっていました。
 山岸さんは若い頃から高井田墓地委員をされています


    B29が墜落したと思われる一帯 ※地図は現在
 
 山岸さんは、墜落現場で米兵の遺体を目にしたそうです。その中には女性の兵士も含まれていました。墜落現場には、近郷近在ばかりでなく、遠いところからもたくさんの人が見に来ました。「アメリカ兵はどんな人間か見たかったのでは」と、山岸さんは語ります。ちょうど山岸さんから話を聞いた高井田墓地にも燃料タンクのようなものが落下し、燃えたということです。後にわかったこととして、偵察に来たB29が、高射砲で撃墜され、乗員は小阪斎場と長瀬斎場に葬られたそうです。



戦闘機の操縦士の顔が見えた



関谷さんが描いた戦闘機  グラマンF6Fヘルキャットと思われる


陸軍八尾飛行場の研究会(河内の郷土文化サークルセンター主催)
          にて発言する関谷さん
 機銃掃射を受けた経験を語るのは玉串在住の関谷廣(ひろし)さん(86歳)そのときの恐怖の記憶は鮮明に残っていて、絵に描いて示してくれました。
 当時、青年の関谷さんは、お父さんと畑仕事に精出していました。突然あらわれた戦闘機三機が急降下してきて、機銃掃射を浴びせました。幸いふたりとも無事でしたが、今もその瞬間を忘れられないといいます。襲いかかった戦闘機の操縦士の顔まで見えたそうです。
 その後、畑から機関砲の弾がみつかり、大切に残してきました。関谷さんは、また、大阪大空襲の悲惨な光景も目の当たりにしたと語ります。当時、関谷さんは、徴兵検査を済ませ、9月に海軍に入隊予定でした。しかし、その前の月に終戦となりました。
       関谷さんが保管してきた機関砲の弾



山麓にも黒い雨が降る



大阪大空襲や小阪空襲を記憶にとどめ、平和を祈る「平和の乙女像」(小阪駅前)
                   & 延焼をくいとめる疎開道路のため、軍によって強制立ち退きになった場所
 
 小阪から生駒山麓の池之端町に疎開していた
磯野健一さん(76歳)国民学校4年のころ、警防団のお父さんを残し、お母さんと縁者に身を寄せました


  機銃掃射の目撃談など 多くの経験を語る磯野さん
 大阪平野が一望に見渡せるところから磯野さんは大阪大空襲の一分始終を目撃しています。雲ひとつない日、B29の編隊が飛んできて、あらゆる方角から爆弾を落としました。大阪市内は炎につつまれ、煙で空は真っ暗となりました。一時間ほどたったころ、雷鳴とともに黒い雨が降ってきました。少年の磯野さんはぼう然と立ちつくしました。しばらくたっても、生駒山から爆撃の音が山鳴りとなって聞こえた記憶があるといいます。

 終戦の一週間前に、小阪方面で大きな火災が起きているのが見えました。あとでわかったことですが、一機のB29が焼夷弾を一発落としていったのです。
 お母さんはお父さんの身が心配で朝一番の電車でたしかめにもどったのですが、幸いにお父さんは無事で、家も延焼をまぬがれていました。一週間後に磯野さんが小阪に戻ったところ、まだ一帯は煙がくすぶっていました。
杉山三記雄さん(河内の郷土文化サークルセンター会長)と磯野さん
  理容店を営む磯野さんの自宅には「小阪城」

         
           <寄稿> 乙女像に想う
     
 
 還暦からさらに10年、古希を迎えてしまった。なにをしてたの?という思いを特に感じた夏でした。そしてさらに「平和」「心やすらぐこと」への強い希求です。河内小阪駅南西に位置する「はとをささげる少女」の像を何度も見に行きました。スリムで静かにさりげなく東向きに立っています。いつ頃?10人ほどの方々にたずねたが判らなかった。時の激しい変わりように気づかないまま来てしまったのでしょうね。自分もぼんやりとしか見ていなかった気がする。8月23日は処暑とか。すぐそばの西を向く見守り地蔵さんは地蔵盆提灯の飾り付けをしてにぎやかな雰囲気。少女のぐるりはすぐそばのクスノキが葉を茂らせ風がわたり、鳩たちが飛び交っている。2人の青年が植え込みの石に座って弁当を食べている。平和な風景・・・・・。
 自分の終戦の時の記憶は防空頭巾をかぶって庭の防空壕の中にいて、奥のところで祖母がお経を唱えていたような・・・・・。これも後年、母から聞いていたのかもしれない。父が壕の外で家族を護ろうと見張りをしたようだ。(当時は森河内に住んでいた) 父は、造幣局に勤めていたようだが、お上を嫌っていたらしい。争いごとを一番いやがっていた人だった。(からだも弱かったことも起因した小市民的なところがあった) この当時の世相から、子ども心に父親に対して物足りなさがあったかもしれない) いつも一番に「からだを大事にしなさい」と、娘のことを心配してくれていた。大人の苦労話をもっと聴いておけば良かったと、今にして思う。進駐軍のジープから投げられたチュウインガム。みんな競って走り寄っていたが、わたしはじっと我慢して見ていた。
                  はなの のののはな 8月24日

これはなに?






  上四条町あたりでみつけた光景です。この爆弾らしきものの正体はなんでしょう。調べたところ、戦時中に爆弾の筒をつくるY製作所の工場がこのあたりにあって、終戦後、工場の敷地内にごろごろと大きな筒がころがっていたとのこと。

 そのうち、家の境界と魔よけの意味で利用したものではないか、という人伝えの記憶が残っていました。のどかな山麓にあって、かって戦争があったことを、ひっそりと語り続けているようです。

  レポート:村上・東野・楢
  協力:杉山(河内の郷土文化サークルセンター会長)

 <投稿>B29撃墜のあと 8月17日追加掲載

 お盆に小阪斎場を訪れたとき、同斎場近くにお住まいのK氏(65才)が、K氏の父親からB29の米兵の埋 葬などに立ち会ったことを聞かされているというので話をうかがった。

A 遺体の数は定かではないが、小阪と長瀬墓地に分けて土葬した。
Q 墓標など何か残っていないか。

A 当時は墓と墓の間の通路に土葬したらしいが、今はその痕跡はない。
Q 何故火葬しなかったか
A 火葬しようにも燃やすシバも何も無かったので、役場の命令で土葬したようだ。
Q 土葬して問題は出なかったのですか。
A その後MPがきて、土葬の遺骨を掘り返し持ち帰った。また土葬した関係者が、 大阪のどこかへ呼び出され進駐軍から相当叱責されたと聞いた。


                投稿者:F/M

<投稿> 平和を祈る  御厨・Nさんの行動
                         
8月31日追加掲載



     今年の平和行進のようす

 7月27日~8月4日 今年のこの暑いさなか広島への平和行進に参加、念願の目標を達成された。炎天下の国道、引っ切りなしに走るトラックの横を一列になり、ひたすら西に西に向けて歩く人たち・・・100人以上だったと言う。彼女を衝き動かせる思いは何なのか。Nさんも小阪の乙女の像を気にしていた一人でした。折り鶴を首に掛けて平和を願う方がこの近くにおられる。「どなたが御世話をなさっておられるのか」。駅南のお菓子屋さんや3代目という本屋さんにも聴いてみたがはっきりしなかった。彼女は、旧満州奉天(瀋陽)生まれ。終戦後1947年に帰って来たそうです。3歳になる少し前です。「10歳ぐらいだった。母を激しく責めたんです。『なんで、戦争なんていらんと言えへんかったん』と。母は、ぽろぽろ涙を流してましたね。」「母を悲しませたことへの悔い、生きて連れて帰ってくれたこと、そしてわが子に『かわいそうなぞう』の絵本を読んでいて、わたしは泣きました。泣いておかあちゃんに謝りました。子どもたちにきちっと言えるようにせなあかんと・・・」 きっかけは、50代だった。からだの調子も悪かった時に「一歩でも二歩でも歩いたらいいのよと教えられ少しづつ距離を延ばしていきました。「最初は恥ずかしかったけどね」。夏の終わり、少し興奮が収まった彼女の元気な充実した笑顔にわたしは満たされました。 
          8・27 はなの のののはな

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